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宝塚
16

谷正純 死ぬほど、生き倒す

2020.08.01

前回の記事がアップされ、読み直していくつか気づいたことがある。それは、私が文中で言及した「余韻」のおぼろげな正体だ。
おそらく、それは死の予感。
物質的、そのままの意味での死の場合もあるし、社会的な死の場合もあるが、直接的にそのシーンが描かれていても描かれていないにしても、私は何かの物語を読むとき登場人物の人生そのもの、特に終末の姿に思いを馳せている。これは、おそらく初めて琴線に触れた物語が、前回紹介した柴田侑宏さんの作品だった影響だろう。
こまやかで鮮やかな人の生き様を、創作物を通して体感できるのはとても面白い。


さて、今回はまず、改めて私が20年以上の観劇体験の中で好きな作品を3位から発表したい。
まず『花の業平』(2001年星組宝塚大劇場公演 主演 稔幸・星奈優里)。
これは前回紹介した柴田さんの作品だ。

それ以上に好きな作品があと2つ。
1つは『ANOTHER WORLD』(2019年星組宝塚大劇場公演 主演 紅ゆずる・綺咲愛里)。
そしてもっとも好きなマイベストワンは『武蔵野の露と消ゆとも』(1997年星組バウホール公演 主演 麻路さき・白城あやか)。

今回はこの2作品の作者・谷正純さんについて語っていく。




谷さんは1979年入団のベテラン作家で、前回柴田さんの作風は「世話物」と喩えたが、それと対照的にスペクタクルの傾向が強いとされる伝統的なタイプの座付作家だ。柴田さんと“双璧“と紹介した植田紳爾さんの脚本作品の演出につくことも多かった。
ミケランジェロや松平忠輝など古今東西の実在の人物をモチーフにしたオリジナル作品や「プラハの春」などの歴史的事件を取り扱った作品も多数手がける一方、『白夜伝説』(1992年星組大劇場公演 主演 紫苑ゆう・白城あやか)のようなファンタジーから、『エデンの東』(1995年花組大劇場公演 主演 真矢みき・純名里沙)といったハリウッド映画まで、題材の幅広さも持ち味のひとつと感じている。

その幅広い作風の礎でもありそうだが、彼の特徴としては古典芸能に造詣が深いことがあげられる。
先述の『ANOTHER WORLD』は横文字のタイトルだが、実はこれ、モチーフは落語なのだ。「地獄八景亡者戯」「朝友」「死ぬなら今」という死後の世界を舞台にした3つの落語噺が下敷きになっており、幕が開くといきなり主人公・康次郎の葬式から始まる。横文字のタイトルは、要は【あの世】を意味している。
彼はそれまでも『なみだ橋 えがお橋』(2003年月組バウホール公演 主演 月船さらら)や『くらわんか』(2005年花組バウホール公演 主演 蘭寿とむ/愛音羽麗)など、若手中心のコンパクトな一座での公演でたびたび落語を題材にしていたが、本拠地大劇場公演での落語ものは初めてだった。どのように作るのだろうと開幕前は楽しみ半分・不思議半分といった心持ちだったが、主演の紅ゆずるさんが幕開き一番真っ白な死装束に三角の天冠をつけて現れ、落語の長台詞を捲し立てた……、あの初日の光景は今でも忘れられない。
落語以外にもヨハンシュトラウス2世のオペラが原作の『こうもり』(2016年星組大劇場公演 主演 北翔海莉・妃海風)などもあり、とにかく豊富な知識や造詣に則ったバラエティの豊かさが谷作品の特徴であると思う。

……と、その「作風の幅広さ」をかなり好意的に紹介したが、私は彼のこの「振り幅」に、文字通りの意味で泣かされたことがある。後ほど回収するので批判・非難ではないことを先にことわった上であえて単刀直入にいう。好みに合わなすぎて、観た後に泣いたのだ。その当時ファンだった男役スターの主演就任公演だったこともあるのだが、作品が気にくわなくて泣いたのは20年でこの1回きりである。

一番好きな作品も一番苦手な作品も、どちらも彼が書いた。
私にとって谷さんとは、そんな不思議な因縁の人。

むしろ、子供の頃は作家が誰かなんてよく分からずに観ているから、時系列としては先述の「一番好きな」『武蔵野の露と消ゆとも』が谷さんの作品だとは知ったのは、くだんの「泣いた」後で、とんでもない衝撃を受けた記憶がある。「シェイクスピア複数人説」という都市伝説よろしく、「谷正純複数人説」を考えたほどだった。

それからたくさんの彼の作品に出会い、その作風の幅広さ・高低差に「耳キーンなるわ!」とツッコみながら見続けていたのだが、いつからかそのバリエーションの理由が単なる知識の豊かさだけではないように思えてきた。もっと根底に流れる何か。

彼が毎回、世界の果てから果てまで走っているように感じるようになっていた。

その、答えに触れた気がしたのが『ANOTHER WORLD』のクライマックス、主人公のセリフ。

康次郎 いっぺん死んだ気になってやってみなはれ!!

この物語は、康次郎が恋煩いで死んで“あの世“に“来た”ことで出会った、他の死人や貧乏神、閻魔大王などと心を通わせていくという冒険譚。気の弱い若旦那だった主人公・康次郎が“いっぺん死んだ“ことで愛する人や仲間を守る勇気と行動力を手にしていく。

私はこのセリフを聞いたときに、谷さんの幅広い題材の中で共通して感じ取れるキーワードが、この「いっぺん死ぬ」ではないかと直感的に思った。







その視点で、作品を2つほど掘り下げていきたい。
まず、先述の「七島的好きな作品BEST3」に次ぐ第4位も谷さんの作品で、『銀二貫』(2015年雪組バウホール公演 主演 月城かなと・有沙瞳)。髙田郁原作の同名小説が原作のこの作品は、まさに“必死に生き直す“若い男女の姿がテーマになる。
主人公である少年・鶴之輔は脱藩浪人の息子。父子2人で放浪するある師走の夜、父が仇討ちの侍に斬られるシーンから物語は始まる。続けて刃先が父の亡骸を必死でかばう鶴之輔に向いたとき、偶然通りかかた寒天問屋の主人・和助がその刃のあいだに、銀を入れた袋を持って飛び出して叫ぶ。

和助 命だけは!これで勘弁したってくだせえ!

天満宮に寄進する予定で工面した、銀二貫と引き換えに鶴之輔の命を救ったのだ。それにより鶴之輔は「松吉」と名前を変え、和助の問屋で商人として生き直すことになる。
話の中で成長した松吉と心を通わせることになる少女・真帆もまた壮絶な「生き直し」を経験する役どころで、必死に生き抜く2人の男女の人生が交錯する静かで力強い物語だった。
宝塚以外でも舞台化・ドラマ化されたこともある同作は、原作そのものがもちろん素晴らしいのだが、人情や泥臭さといった一種不格好に見えそうなものを、薄めることなく宝塚ナイズした書き味は見事の一言だった。

ここまでの泥臭さはないにしても、先述「マイベストワン」の『武蔵野の露と消ゆとも』も根底に同様のムードを感じる。
徳川家茂の正室・和宮親子内親王と、そのいとこ橋本実梁のフィクションのロマンスを軸に、幼い和宮が終末の足音近い徳川家に「降嫁する」という過酷な運命と向き合い、必死に生きて使命を見出す様には、静かな中に強くて人間らしい生命力がみなぎっている。
この作品は宝塚には珍しいストレートプレイで、劇中に歌唱を伴わない。静かで、会話の声と衣ずれの音だけが聞こえる舞台は、和宮の張り詰めた想い・彼女の緊張感を共有しているようだった。

『銀二貫』は商人の話、『武蔵野の露と消ゆとも』は公家と将軍家の話と一見遠い世界に感じるが、それぞれの「人生のリスタート」と奮闘の過程を通して、とてつもなく大きな「生」のパワーを受け取れるという点が共通していると思っている。

宝塚歌劇は女性が男性も女性も演じるし、在団中は年齢も隠されている。装置そのものが何から何まで虚構の仮想現実。だから、愛も欲望も、正義も悪意もどこか「リアル」ではない、オブラートでくるんだように表現するというのが持ち味のひとつでもある。
(これは“花街“に対する“少女歌劇=家族で見られる娯楽“をめざした背景の名残である。連載初回参照
だが、そんな仮想現実に、力強く【生】の風を吹かせるのが谷作品の真骨頂。それは一見表情のない浄瑠璃の人形に命を吹き込む文楽のよう。リアルで生々しい世界で描かれる物語以上に、心に迫ってくるようなのだ。
柴田さんの「余韻」がいつかくる終わりのときを感じるのだとしたら、今この瞬間を必死に「生き倒す」のが谷さんの作品といった対比もできるだろう。




『ANOTHER WORLD』の作中では、こんなセリフもあった。

康次郎 人がえらい好きになりましてん。死んで初めて、御霊のふれあいっちゅうんですか……(以下略)

閻魔大王の前で寛大な裁きをと請う康次郎、さらに「死んで初めて御霊が触れ合う」というツッコミどころ満載のシーンではあるが、このちょっと皮肉な温かさがたまらない。

このセリフから、私は谷さん自身がこの40年毎回「いっぺん死んだ気になって」作家人生を生きてきたのかもしれないとも読み取った。人間誰しも経験を積む中で、一度支持されたり受けたりしたあり方ややり方を踏襲したくなるものだ。それは脂の乗っている時期なら良いけれど、次第に感覚が鈍り、進化が止まる時が訪れる。
谷さんの作ってきた作品のラインナップを時系列で眺めていると、まるで新作で前作をぶっ壊しているようなのだ。






私は、その挑戦し続ける姿勢は「出演者への愛情」あればこそだと感じている。

役者は、毎公演新しい役に出会い、その人生を生き直す生業だ。特に、宝塚歌劇の出演者は「生徒」と呼ばれ、15歳そこそこで宝塚音楽学校に入学してから、入団後も閉ざされた空間で宝塚一筋の生活を送る。良くも悪くも、あの街と劇団と、上演される演目の世界が彼女たちの「すべて」になる。


そんな浮世を離れた彼女たちに、いかに多くの【人生】を用意するか。
あの劇団の座付作家たちは多かれ少なかれそこに心を砕いている。

その中でも特に、谷さんは他の作家に比類しないバリエーションの【人生というスペクタクル】を用意して、一緒に自分自身も七転八倒生き直しているのではないか。何度も死んで何度も生き返って、うまくいかない興行には涙し、成功したら肩を抱き合って喜ぶ。生徒やスタッフとの「御霊のふれあい」を一番楽しんでいるように見える。

谷さんの作り出した「好きな作品」に泣き、「苦手な作品」に泣かされ。
これも御霊のふれあいだと思うと、なんだか15年前に観終わって悲しくて泣いたアノ作品も、愛おしく思えてくる。(好きにはならないけど)。

簡単に発信ができるSNS時代、我々観客の感想から有難いご批評までが大きな声で聞こえてくる昨今。「名作/駄作」の判断基準が、読解よりも声の大きさに引きずられているように思えてならないが……。
一番好きな作品と一番苦手な作品が同じ作家から生み出されている私としてみれば、「そのお裁き、一旦ちょっと飲み込んでみなはれ」と口を挟みたくもなるのだ。

袖振り合うも多生の縁、その作品に出会った意味を反すうしてこそ元が取れるってもんだと思う。
いっぺんしまって、それから出して。
一度しかない人生を何度も味わえる、芝居の楽しさ。それこそが、谷正純が作り続けるアナザーワールドだ。

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